第11回吃音勉強会「対話について考える ―吃音について対話しよう―」

【報告】

 3月12日に第11回吃音勉強会「対話について考える」を行いました。今回の勉強会は、3月11日付けの毎日新聞にも記事として取り上げていただいたこともあり、7名と、通常の勉強会よりも、多くの方が参加してくださいました。記事に取り上げてくださいました毎日新聞様、また、参加してくだいました皆様、本当にありがとうございました。
http://mainichi.jp/auth/guide.php?url=%2Farticles%2F20160311%2Fddl%2Fk11%2F040%2F195000c

 

 今回の勉強会は、「対話」をテーマに行いました。前半では、私が用意した資料を元に、対話についての講義を行い、後半で、参加者全員で吃音についての対話を行いました。

  前半の講義では、対話についての4つの文献を紹介しました。
①『対話のレッスン』(平田オリザ著・講談社学術文庫)、
②『<対話>のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』(中島義道著・PHP新書)、
③『哲学カフェのつくり方』(鷲田清和監修・カフェフィロ編・大阪大学出版会)、
④『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』(綾屋紗月・熊谷晋一郎・著)
の4つです。

 最初の2つの文献で、対話の基本的な考え方について解説し、残りの2つの文献で、対話に基づいた2つの試み(哲学カフェ、当事者研究会)を紹介しました。
 対話をテーマにした勉強会であるにもかかわらず、基本的には私から参加者の方への一方通行型の講義になってしまいましたが、それでも、一人で文献を読んでいるときには気が付かなかった多くの視点を参加者の皆さまからいただき、とても面白かったです。

 (文献を読んでいるときに出てきた参加者の皆さまからの面白い発言の一部です。メモや記憶を掘り起こしながらですので、一部内容などが間違っていたら申し訳ありません)


・「冗長率とは違う尺度だが、同じ文字数や同じ時間なのに、京都弁と大阪弁では話のスピードが違って聞こえるということが知られている。」
・「記者の取材は、対話によって進むこともあるが、必ずも対話的ではない場合もあるように思える。話し言葉の地図のどこに対応するのだろうか?」
・「大阪の商人たちは、真正面に座るのではなくて斜めに座ることで、商談がうまくいくらしい。してみると、対話とは、正面から話すよりもあえてずれた位置で話す方がうまくいくのかもしれない。」
・「インターネットやSNS上の『話し言葉』には、また違った地図や分類ができるのではないか。」
・「吃音症状の出やすさと話し言葉の地図とか対応しているようで面白い。」
・「吃音者にとっては、むしろ対話よりも会話の方がハードルが高いのではなくか?会話したいのに、対話で話すような話し方になってしまい、うちとけられない、という経験が自分にはある。」
・「吃音の症状が、対話の対等な関係性に影響を与えてしまう場合があるような気がする。」
・「一時期はやっていた大槻教授が出演するUFO番組は、とても討論的で、対話的に開かれている態度が全く見られなかった。」
・「『つながりの作法』で紹介されている、マイノリティーが歩む第1世代~第3世代の道のりは、まさに自分も同じような体験をしていて、とても共感できた。」
・「うつの人たちのある自助グループ団体では、参加者がプロジェクトをたちあげたときに、途中で放棄してもいいという構成的体制ができあがっているらしい。そういう構成的体制が言友会にもあっていいような気がする。」
・「集団を運営する上では、毎回毎回対話するのは大変で、ある程度決断力や決定力が必要になってくるのではないか。」
・「言友会の普段の例会では、わりと対話はできている気がする。」
・「どうして対話では冗長率が高くなるだろう?冗長率を上げている『えーと』などの語には、おそらく相手に対する配慮や気遣いなどの心理が込められている気がするが、それは中島先生が述べられている対話の12か条と矛盾するのではないか。」

 後半では、「吃音が人生にどのような影響を与えるか」というテーマについて、対話を行いました。ほとんど私が普段主催する当事者研究会と同じような会になってしまいましたが、みなさん、積極的に発言されて、とても面白かったです。短い時間でしたが、対話が進行するたびに、皆さんの発言が深まり、進行役としてというより一参加者としてとても面白かったです。

 今回は、私が担当する5回目の勉強会でした。30分遅刻したことや、前半と後半の時間配分など、いつもながら反省するべき点の多い勉強会でしたが、個人的には、第1回の勉強会の時に比べて、少しは「対話的」に進行できるようになったような気がします。
 私自身対話はとても苦手で、毎回勉強会や当事者研究会を主催するたびに、うまくいかず、いつもとても落ち込みます。まだまだ未熟ですが、少しずつ、少しずつ、対話の力を身に着けられるようにこれからも粘り強く頑張りたいと思います。対話の進行そのものも、しんどくて時間がかかりますが、対話の力を身に着けたり、対話の論理を導入することも、同じように時間のかかるしんどいものなのだなあ、と改めて思っている次第です。

 また、今回は今年9月に開催される全国大会の準備の意味も含めた勉強会でした。9月の全国大会では、今回文献で取り上げました平田オリザ先生をゲスト講師としてお呼びします。もう半年を切りますが、いい大会にできるように皆さん頑張りましょう。

 繰り返しになりますが、今回勉強会に参加してくださいました皆さま、改めてありがとうございました。

 

(山田)

 

【感想】(速報)

 今回は「吃音について対話しよう」というお話でした。

 まず対話の概念に関する説明がありました。空気を読みお互い察しあうことにより成立する「会話」や、互いにただ自分の主張をぶつけ合うだけの「討論」とは違う、お互い対等な関係で話し合い、各々が主張を変化させていく対話という概念が日本人には稀薄であることなどを学びました。

 次に実践編ということで、「吃音が人生にどのような影響をもたらしたか」について皆で対話しました。

 私自身は、吃音はこれまでの人生においてマイナスな影響しか与えなかったこと、吃音は生きていくうえで障害以外の何物でもないことなどを話しました。しかし、別の方からの「吃音でアナウンサーや作家、漫画家などになった人たちは、吃音があったからこそ創造性を発揮して、そのような職業に就くことができたのではないか」というお話に触れた際、とっさに反証として浮かんだ「そのような人たちはたとえ吃音がなかったとしても、それに代わる原動力を自らの内面に見出して、クリエイティブな仕事をしたのではないか」という問いかけに、さらに進んだ解釈を加えることにより「翻って自分は、たとえ吃音がなかったとしても、発達障害などさまざまな障害を気に病み、結局のところ同じようにネガティブな性格になっていたのではないか」という自省に至ったという経緯を発表しました。

 それに対し、他の方からはさらに「悩みや障害をバネにクリエイティブな仕事につき、はたから見て社会的に成功し幸福そうに見える人でも、太宰治などのように人知れず苦悩し、玉川上水に身を投げたりもする。結局のところ、なにが幸福かは、その人自身でなければわからないのではないか」というご意見が出て、とても深いなと感じました。

 本当はこれについては何時間でも語りたかったんですが、対話のために用意された時間は一時間程度と短く、後ろ髪をひかれつつのお開きとなりました。こういった哲学カフェや当事者研究といった手法は、今後もたとえば9月に埼玉で開催する吃音ワークショップなどでも試す予定であるということで、続編に期待しつつ終わりました。担当された山田さん、ありがとうございました。

(Web担当 松村)