第16回吃音勉強会「バリアフリー・コンフリクト第3弾」

【報告】

 3月19日、大宮中部公民館で、吃音勉強会を開催しました。
  テーマは、「バリアフリー・コンフリクト第3弾」。一昨年9月、昨年6月の勉強会に引き続き、教科書『バリアフリー・コンフリクト 争われる身体と共生のゆくえ』(中巴賢龍・福島智 編,東京大学出版会、2012年)の内容を、メンバーで対話しながら、読み進めました。
 今回、読み進めたのは、第7章『障害者のアートが問いかけるもの』でした。
 この章では、まず、はじめに、「障害者アートに対する違和感の正体」の一つが、「障害があっても表現できる」という公共性・福祉性の論理と、「障害があるからこそ表現できるものがある」という芸術性の論理の混在であることが、指摘されていました。この整理のされ方は、とても分かりやすくて「なるほど!」と、と個人的に思いました。
 そしてその後、ローラ・ファーガソンの作品と、ディスアビリティ-・ムーブメントの話、という2つの事例を引き合いに、「障害者アートをめぐるコンフリクトの事例」が紹介されました。
 その後、「創作の過程で生じる社会的な関係性」をそのまま表現として示す、という意図から、「表現の生まれる場」をそのままアートとして転化しているクレアムたちの即興ダンスの実践が紹介されました。
 そして、最後に、美学の話が紹介されて、この章が終わっていました。正直、この章の終わらせ方は、個人的に、あまりまとまりのない終わり方だと感じ、「なんだかなぁ」という煮え切れない感触を覚えました。
 さて、いつも、勉強会の報告文では、勉強会の中で出てきた意見をなるべくまとめて紹介しているのですが、今回、私の大きなミスで、ちょっとそれはできないことをお断りしておきます。
 どういうミスかというと、いつもは、勉強会を進行しながら、でてきた意見を、可能な限りメモにとり、後でそのメモを見返して、出てきた意見の紹介文を書いています。ところが、今回、実験的に、メモの代わりに、はじめて、録音機材を使って、出てきた意見を記録しました(メモを取るのがいつも大変だったから、0さぼってしまったのです)。
 しかし、録音された音声を聞き返したところ、ものすごく不明瞭で、とても聞き取れないものでした。つまり「録音テープを文字化する」というやり方は、完全に失敗してしまいました。次回から、さぼらないで、いつもみたいに、メモを取ろうと考えています。
 というわけで、今回の報告文では、私がこの章を読みながら、また、勉強会を進めながら、思ったことをつらつらと気ままに書かせていただきます。
 
 吃音者とアート、という問題について考える際、僕が、まず、まっさきに思い浮かべるのは、竹内レッスンです。
 吃音勉強会でも、「からだとことばのレッスンからみた吃音」の回で、竹内レッスンについて紹介したり、三好先生をお招きして、みんなで、竹内レッスンの体験をやったりしました。
 この取り組みが、「障害者アート」として、一体、どういう意味を持っているのか、ということが、とても気になりました。というのも、第7章で紹介されていたどの事例とも、全く違うものであるように、僕には思えるからです。
 一見すると、この取り組みは、「自分の身体を変えるための取り組み」なので、この章の文脈でいえば、ディスアビリティ-・ムーブメントの人達が批判するような「療法的なアート」の一つ、ということになるのではないかと思います。
 でも、僕には、そうとも言えないような気がします。もしも、半ば強制的に、竹内レッスンが、吃音者の「からだをひらく」、あるいは「吃音を治す」リハビリのような目的で行われていたとするのならば、それはたしかに、たしかに、「療法的なアート」の一つと言えるのではないかと思います。
 しかし、竹内レッスンの場合、竹内敏晴さんの考えに共感した吃音者たちが、主体的にレッスンに参加し、演じていた、という構造があります。何より、竹内敏晴さんを呼んだのは、「治す努力の否定」を打ち立てている伊藤伸二さんです。だから、竹内レッスンを「療法的なアートだ」とすることには、ちょっと違うのではないのかな、という感じがしました。演劇の場合、「演じる」ということは、だいたい主体的なことなので、よほど強制されることのない限り、「療法」とはなりえないのかもしれないと思います。
 こういう視点は、この章には欠けているのではないかな、という気がしました。
 それから、私がこの章を読んで、次に思いついたのは、昨年、僕が運営する東大スタタリングで上演した吃音劇「ことばがひらかれるとき」のことでした。
 この章では、「一人一人の「主体化」を可能にする「表面的には優しい権力」が問題にされなければならないのではないか」という指摘や、「専門家と表現者である障害者の接触において機能するミクロな権力作用が露呈される。筆者はそうした接触面に障害者アートの可能性があると考えたい」という指摘がなされていました。
 僕は、とても、ここの部分に、胸が痛くなるような思いがしました。たしかに、劇団のメンバーは、みな、「主体的に」僕の演劇企画に参加してくれた人たちでした(だったと僕は信じています)。しかし、昨年の上演時、「なんとか作品にする」ために、一人一人の役者だった人たちに対して、ミクロなレベルやマクロなレベルでも、色々な「権力を作用させていた」という側面は、否定できないな、と感じました。
 演出家が、役者に対して権力を作用させることは、演劇の現場では、日常的なことなのかもしれません。でも、今後、「吃音者の表現」として、劇団を運営していく上では、「劇作家や演出家が役者に働かせる権力」の問題は、避けて通れない問題だな、と改めて思いました。なるべく、稽古現場では、対話のための時間を割いてきましたが、「一つの作品として形にする」ために、「作家や演出家の意向に、役者を従わせる」という権力を働かせてしまった部分は、あったように思います。
 僕自身は、「演劇を使って吃音の問題と向き合う」という取り組みは、吃音者にとって意味のあることだと思っています。もちろん、演劇に興味がない吃音者も大勢いますから、吃音者全員ではありませんが、僕自身は、吃音について悩んでいる時期に、演劇に、とても救われたな、と思っています。だからこそ、権力の問題について、ごまかして素通りしてはいけないな、と思いました。「吃音者にとって表現するとはどういうことか」という大きな問題について、これから、真摯に向き合っていこう、と思いました。(山田)

     

【感想】

(当日回収したアンケートより抜粋)

・バリアフリーコンフリクト第3弾

 しゃべりすぎたので、すみません。

 意見をいろいろ言えました。

 好きな人には好きな内容で、好きではない人には難しい内容だったと思います。

(40代男性、会員)

     

・今回の3月例会(勉強会)は、障害学の専門的な事だったので、自分には理解し難いと思いました。

 関心がないと話についていけないです。

 障害者アートに関する表現、考え方が色々とあるなと思いました。(30代男性、会員)

     

・テーマは興味深くて取っ掛かりは楽しめたが、後半は哲学的で難しかった。新たな視点が増えて良かった。(30代男性、会員)

     

・今回はバリアフリー・コンフリクト第3弾ということで、障害者アートについて学びました。
 まずはじめに、障害者アートと障害者「の」アートとの差について議論しました。結果、前者は「障害者なのにすごいね、えらいね」といわれるような芸術で、後者は「障害者だけど健常者を完璧に超越した」芸術であるという仮説を立てました。
 しかし「障害者だからこそできる表現」があるのでは?という問題提起があり、そこで議論が深まりました。
 私見ですが、障害者にしかできない表現というのは究極的には存在しないと思います。またある芸術家(たとえばベートーベンなど)が障害を持ちながら掛け値なしの名作を産み出したとして、そこにはファクターとしての障害はあっても、それが唯一無二の芸術性を構築する要素であるということではないと思いました。
 つまり突き詰めれば障害者アートの「障害者」という冠を外した先には健常者アーティストとの闘争の荒野が広がっており、そこで勝ち抜くことで初めて先鋭的なアーティストたりえるのだと思います。
 そこまでたどり着いたところで時間切れになってしまったんですが、帰りの電車の中で私は、家族や施設、行政などの庇護のもと障害者アートを究める道も決して否定されるべきではないと思いました。むしろそれで糊口をしのぐ道があるなら上等というわけです。
 なんか小難しい議論で、それこそ飯が食えるのか?と聞きたくもなるでしょう。しかし、この議論を経なければ、将来食えなくなる人が出てくる、となれば一気に現実味を帯びてきませんか?
 まさに近年の吃音者の社会的支援、障害者運動に直結する議論であると感じました。キーワードは寛容性です。
 すなわち健常者と伍して芸術性を究める生き方があり、その中には障害を克服するやり方と、それを武器にするやり方がある。一方で、行政等の庇護のもと障害者アートを究める生き方がある。これには吃音改善と受容、社会的支援を代入することで話が通じますね。それらいずれをも否定してはならない、それが寛容性です。
 これ以上は話が長くなるので控えますが、哲学もまた実学なり、と感じさせるひとときでした。担当者の山田さん、ありがとうございました。(40代男性、会員)